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祭、炎上、沈黙、そして… POST3.11

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2016年 02月 13日

光明の種 POST3.11 企画主旨 Concept about 'Seeds of Hope'

 3.11において絶望の闇を体験し、その余波は今も続いています。3.11を境に世界が変わってしまいました。それは戦後日本の終焉で先の大戦と同じような時代の節目なのです。

 美術家は、同時代の空気の渦中にいて見えざるものをまさぐり、その混沌の先に見えるものに形を与える役目を負っています。3.11に直面して自問した「何をなすべきか」を問いつめ、私たちは高密度に形を与える「結晶化」を見いだしました。それは昨年の東京都美術館で開催された「祭、炎上、沈黙、そして…POST3.11」に結実しました。そのあとに見えてきたものはなにか?

 日常風景が3.11以後変わって見えるように、 あたりまえに感じていた資本主義や民主主義などの戦後日本を疑い、その自明性に抵抗する広く静かな、しかし確かな動きがあります。美術作家も同様な意識で察知し行動し始めています。この展示は五人が3.11以前に察知した予兆とこの先の希望の光源「光明の種」を見いだそうとするものです。



光明の種 POST3.11
白濱雅也 (美術作家/本展企画)
●美術に何ができるのか

 見慣れた光景が昨日までと違って見えるということがあります。
 3.11以降、平穏な日々も明日死ぬかもしれないという危うい影を帯び、また放射能によって毎日飲む水も、路傍の花にも病の影を感じ、自分たちの子孫の未来が脅かされるかもしれないという自責の影も背負いました。
 戦後の日本は後年、矛盾や陰りを感じながらも明日の希望の光を感じられる時代でした。3.11はそこに久しく忘れていた暗い影を落としました。その影は計画停電による現実の闇を生み、放射能が連帯を引き裂いてそこにも闇を見せ、繁栄の陰で増殖していた醜い日本の姿を知り、絶望の闇も見せました。
 そのことに直面した美術家は当惑しました。日本の繁栄に下支えされて自己の世界に没頭してきた美術家は、己の無力さと向き合わざるを得なかったからです。美術は何ができるのか?美術家は何をすべきなのか?
 全ての作家が自問したその答えを私は過去の名作の中に見つけました。数十年、数百年前の名作の中には、その時代を生きた作家の息遣いや情熱にとどまらず、時代の声や空気までも高密度にパッケージされているのです。丸木夫妻の作品にも息づくこのパッケージによって、時間の壁を越えること、そこに美術の役目の一つがあります。
 私はそれを「結晶化」と名付け、震災に関連した多くの展覧会を見る中で、震災の結晶化に取り組む作家に出会いました。

●作家は3.11から何が変わったのか

 安藤栄作は自ら被災し放射能から逃れて避難するというという境遇の中で、斧一本で丸太と向かい合い作ることを問いながら日本のありようと生きることを見つめています。
 石塚雅子はまるで津波火災のような絶望の暗闇の中に燃え盛る業火を描きはじめ、それはやがて希望の光を思わせる輝きを発するようになりました。
 半谷学は以前より気仙沼の養殖業で廃棄される海藻を紙として再生させた立体作品を制作、震災以後はその記憶を追体験、追想するような大型作品を発表しています。
 横湯久美は祖母の死を受容する過程において被災を自身の経験と繫ぎ、写真によって生死を巡る私小説を紡ぎます。
 白濱雅也は故郷と親類の被災を機に、見捨てられた無名の木彫像との対話によって鎮魂と再生の意を込めた神像を彫り始めました。
 今回、この五人が3.11の「結晶化」の途上で感じた事、それ以前に察知していた事、その後に見いだしたものを展示します。

●闇の中で見つけた光明の種

かつて、未来と自然への漠然とした期待があり、その日常の中で察知していた核や戦争の予兆がありました。そして今、彼らが日々の制作の傍で見つめているものは絶望だけではなく未来への希望であるはずです。震災後五年目を迎え、絶望の闇を凝視する中で探る希望の光はどこにあるのか、その「光明の種」は何なのか。
 3.11は近代と戦後の終焉です。3.11を跨ぐ各作家の制作を通じて、時代の節目を感じていただけることでしょう。

by post311 | 2016-02-13 22:05 | POST3.11 Saitama


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